《英語は権力であること》
1996年に二回目の世界一周旅行をした時、フィンランドのヘルシンキから水中翼船でバルト三国、エストニアの首都タリンへ入った。
タリンはフィンランドから日帰り旅行も出来る観光地で、外国人の多い歴史的地区の観光案内所では英語が通じる。
民宿の案内所へ行っても、いかにも育ちのよさそうな金のありそうなロシア系の美女が英語で民宿を紹介してくれた。
しかしそれ以外では全く英語は通用しなかった。
民宿のオバサンは英語が出来なかったし、商店の人も駄目だった。
バスターミナルでも英語は使えなかった。
民宿案内所も、別の旅行者がたずねたときはロシア語しか通じない人がいて、英語で意思を伝えるのに、とても困ったそうだ。
(ただ、いくら1996年でもこれはおかしい。たぶん英語をしゃべる美女が席を離れていただけだろう)
バスでラトビアの首都ビリニュスに入ると、鉄道駅でもホテルでもさっぱり英語が通じない。
切符を買うときは、窓口で列車に乗ったり眠ったりするジェスチャーをして、リトアニアへ行く寝台車の切符を買ったものだ。
しかし、ビリニュスにも一人だけ英語が出来る女性がいて、その人はバスターミナルの奥の部屋にいて、これも金のありそうな留学帰りの美女だった(彼女はバスのことは実際は何も知らなくて、役には立たなかった)。
東欧を縦断しながら、ほとんどの人が英語を話せない東欧でいまや世界共通語の英語がしゃべれるというのは、これはすごい「力」だなと思った。
ルーマニアの首都ブカレストの中央鉄道駅にいた客引きが英語ペラペラで、日本人旅行者のことも日本語のガイドブックのこともよく知っていたが、彼もいかにも教育はありそうだった。
彼は、一流大学を優秀な成績で卒業したが、企業に勤めても金にならないので、それで怪しい仕事をしているって感じだったよ。
西アフリカ、ダカールのマリ大使館にビザを取りに行った時、いっしょの部屋で待っていたのがフランス人の若者2人と、ベルギー人のカップルだった。
英語をしゃべるかと僕がフランス語でたずねたら4人とも英語を話した。
1980年代までは、フランス語圏の人は、英語ができない、理解していてもわからない振りをするというのが常識だったのだが、世界は大きく変わったようだ。
ベネズエラにいたときは、僕がスペイン語で話をしても、東洋人(ここでは「チーノ」と呼ばれて馬鹿にされる)だと誰もまともに相手にしてくれなかった。
しかし、わざと英語をしゃべると、店やホテルの態度もがらりと変化して、東洋人でもきちんと対応してくれる。
つまり、現在では英語を使えるというのは、世界中どこでも、その人自体のレベルを高く評価してもらえるということ。
ある種類の権力を持つということなんだよね。
はじめて海外旅行に出る人は「言葉が出来なくて海外旅行できるだろうか?」と心配することが多い。
ズバリ答えると「言葉が出来なくても海外旅行は出来る」。
だから気にする必要はない。僕は英語が通じなかったころのトルコを「ギュナイデュン(おはよう)」「テシュックリデリム(ありがとう)」「ベンジャポノム(僕は日本人です)」の3つのフレーズだけで旅行したことがある。
現在のトルコでは英語ばかりか、日本語でも通じるようだが…。
基本的には、日本人は英語が出来る。
できないと思っていても、自分でできることに気が付かないだけだ。
英語が母国語でない外国人旅行者同士では、ゆっくりしたわかりやすい英語が海外旅行の標準語となっているので、慣れればいくらでも外人と話は出来る。
それは知っておいた方がいい。
せっかく英語を話すチャンスなので、外人と出会ったら、英語で話しかけるようにすると、新しい面白い経験が出来ると思う。
全く勉強をしていなくて、本当に英語を話すのが面倒な日本人にとっても、世界中に日本人旅行者はうじゃうじゃいるので、どこへ行っても日本人と出会うし、日本人宿もあり、日本語で旅の情報はいくらでも入手できる。
日本語だけでも長期旅行はできるので安心していていいです。
ただ、こういう日本語だけの旅行は、知的レベルの低い日本人と知り合うだけだ。
言葉だけではなくて、もともと話す内容のレベルが驚くほど低い。
低い知的レベルがどんどん低下していく(馬鹿がますます馬鹿になる)ので、せっかく海外旅行に出ても、経験としても、あまり役に立たないような気がするけどね。